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このサイトは、埼玉県坂戸市で毎年行われる「ヒロシマ市民の描いた原爆絵画展」の記録を掲載しています。
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過ちは繰り返しませぬから 〜ヒロシマ訪問団報告を聴いて〜

熊谷 憲治 (市民投稿)

ヒロシマ訪問団報告

 瞬時に十万人単位の人命を焼き殺し、64年後の現在も放射能による苦しみを与え続ける原爆、その残虐さと非道はいくら強調してもし過ぎることはない。

 原爆絵画展(坂戸会場)も今年で17回、参観する度にその思いは強まる。だが、今回は更に別の視点からヒロシマを考えることを教えられた。それを気付かせてくれたのは若い二人の女性だった。

 その二人(武井芙由子さん、平岡紗来さん)は今年2月、原爆絵画展埼玉県実行委員の十数名と広島を訪れ、軍都広島の遺された諸施設を見学し、広島県朝鮮人被爆協会長の李実根氏の講演を聴くなどして、未曾有の被害を受けた広島を“加害”の面からも顧みることを学び、それを絵画展で広島訪問団報告として次のように発表してくれたのである。

なぜ広島に投下されたのか?

 原爆がなぜ広島に…?の問いに「捕虜収容所がなかったから」がこれまでの主な理由説明だったようだが、捕虜収容所がなかった大都市は他にいくつもあったから、それでは答にならない。

 原爆投下を命じた当時のトルーマン米大統領は投下後の声明で「日本軍の重要基地である広島に投下した」と述べており、アメリカは原爆使用を企てたマンハッタン計画の中で軍部=広島を明確にターゲットにしたのである。

出撃拠点としての軍都広島

 軍都広島は明治時代の早くから整備拡充され、日清戦争(1894年〜)に際して政府は軍の最高統率部である大本営を設置、侵略出撃港として広島―宇品港を完成させ、天皇が広島に移動して臨時帝国議会さえ開かれた。さらに陸軍兵器廠(へいきしょう)ほかいくつもの軍事施設が存在した。強烈な爆風を受けながらもそれら建造物は現在も一部残っている。

 一般にヒロシマは1945年8月6日から語られる。だが、広島は日本が明治時代から進め続けてきた軍事的大陸侵略の最も重要な出撃拠点であって、広島への投下はそれなりの原因があったのである。だから原爆投下はやむを得なかったというつもり毛頭ない。むしろ前述のように被爆の残虐性はどんなに強調してもしすぎることはない。

ヒロシマの過ちとは?

 だが被害の悲惨さとは別に忘れてならないことがある。それは、原爆投下の遠因が日本の進めた侵略的軍国主義路線にあったこと、そしてその過った戦争への道の象徴として軍都広島があったということである。このような視点から述べられた若い二人の報告を聴いて、私は広島平和記念公園の慰霊碑に刻まれた碑文『安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから』を思い起こした。被爆の残虐さ、被害のウラミツラミを訴えるだけだったら「過ちは…」などというであろうか。

 ではこの『過ち』とは何なのか、ヒロシマは決して非道な被爆被害だけを訴えているのではない。

 むごたらしい被爆の実態とその残虐さを訴える声の底には、明治時代からの侵略的軍国日本がたどった道への痛切な反省がこめられており、その上で核廃絶を世界に訴えているのである。 この碑文はまさに憲法九条そのものなのだと思い至った。

 古希を迎えた私がこうした視点から改めてヒロシマを考えさせられたのである。その契機を与えてくれた報告者が二十代前半の若い世代であったことは何より嬉しい。