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朝霞第四中 中條克俊さんの講演『原爆投下の歴史をどう伝えるか』を聞いての感想をまとめました。
戦争について次の世代にどう伝えていくのか、それは重要な課題です。
戦時中、朝霞の工場で旧制中学校や女学校の生徒達が小川町の細川紙を用いて「風船爆弾」作り作業をさせられましたが、中條先生は、このように地域で子どもたちが実際に戦争荷担者の一員に組み入れられていった史実を掘り起こし、それを生徒達が調べ、聞き取るなどの活動を通して戦争を考えていく、そのような授業の実践を話されました。
正式には「ふ」号兵器と呼ばれた風船爆弾は、上空1万メートルの偏西風にのせて8千キロ離れたアメリカ本土に向け飛ばされ、その中の一つがワシントン州にあった原爆プルトニウム製造施設の送電線を切断し、停電させたため原爆製造が遅れ、その報復が長崎への原爆投下であったとのことです。実はこの風船爆弾の発想が現在世界を脅かしている大陸間弾道弾につながるわけです。
中條先生が授業で用いた資料には、風船爆弾の紙貼り作業や木枠の運搬作業をさせられた十代半ばの少年少女たちの日記や証言もあり、苦しかった作業内容やお国の勝利のために一身を捧げるという心情などが述べられています。
先生の授業は風船爆弾を切り口に、真珠湾奇襲攻撃、東南アジアやサイパン侵略等、いわゆる大東亜戦争へと発展し、さらに現在のブッシュ政権の核戦略にも触れ、内容が濃くなります。
この講演の参加者は若い人が少なく、主婦や中高年の方々が主でしたが、教科書のみを通りいっぺんの解説で済ませる授業とは全く違い、具体的な地域にあった史実を通して戦争を考えていく授業の実践報告ですので、みな熱心に興味深く聞きいっていました。
中條先生のお話の後の話し合いでは、時間は短かったですが、様々な発言がありました。
一人のご婦人は、戦時中女学生で勤労動員をさせられ、国の戦争政策を信じて悲壮な気持ちになっていたが、戦争を疑問視する言葉を口にした父親を恨みに思った、でも、今思えば父親は冷静で自分の方が間違っていたと告白されました。戦時中の教育の恐ろしさを感じます。
また、自分の娘が海外ボランティアに行った現地で日本の侵略のツメあとに出会って当惑したこと、自分たちの子どもが戦争についてどんなことを聞き、どんな反応を見せたか等の発言をしていただきました。
具体的な史実を通して戦争をきちんと教えていく授業を実践された中條先生と話し合いに参加された方々に心より敬意を表します。ありがとうございました。(文責 熊谷)